学会について

歴史

骨折研究会発足の頃

榊田喜三郎(京都府立医大名誉教授)

榊田喜三郎(京都府立医大名誉教授)

本学会は今年第30回という節目の年を迎え、今日まで大きく発展して来たが、そのルーツは昭和53年4月15日、私が会長として初めて開催した第1回骨折研究会である。
私が数名の同志の先生方と共にこの研究会を設立し、研究会の開催にこぎつけた動機や骨折治療についての当時の社会的実情について述べてみたい。

私は昭和43年9月から大学附属病院に勤務していたが、骨折患者は殆どが交通事故によるもので、その成績は余りにもミゼラブルなものが多く、長期治療の結果は身体障害者手帖の交付対象者となる例が少なく無かった。
他施設から送り込まれて来る陳旧例は遷延癒合、偽関節、関節拘縮、外傷性骨髄炎などで、これらは何れも骨折治療の整復、固定、後療法の基本的原則を欠いたものばかりであった。 しかもこれらの症例の大部分は初期治療から整形外科外傷に経験の深い医師にかかっていれば、正常治癒過程を経て、何らの機能障害も残さず早期社会復帰が果たせたと思われる症例であった。

私はこの点に大きな憤りを感じ、骨折患者の救急医療の実体調査を行なった。
事故現場に到着した救急車は骨折患者を収容すると、救急指定病院に搬送するのだが、国立病院(大学附属病院を含む)は救急患者を受け付けず、公立、公的大病院は何時も殆ど満床で、入院不可のサインが消防局に送られていることが多く、救急車は救急指定の有床個人病院に搬送するのが日常的であった。
そのため公的大病院の前で発生した事故で受傷した骨折患者でさえ、救急者は遠くの個人病院に搬送する風景をしばしば目にした当時、個人病院で救急指定をとっている院長は殆どが外科出身者で正しい骨折の取り扱いの出来ない人が多く、実際の診療はアルバイトの未経験な研修医に任せられていた。 入院患者に対する院長の指示は抗生剤をはじめ、高価な栄養剤の点滴注射を1週間続けることだけで、患肢を良肢位に固定することすらなされなかった。 院長が救急指定をとった動機は自賠責保険にあり、これにより患者誘導を計った点にある。折角の保険も点滴などにより入院僅か3日で使い果たしたと言われている。

昭和39年、名神高速道路(日本で初めての高遠道路)が開通し、不馴れなドライバーたちによってハイエナジーの外傷が多発し、これらは殆どが開放骨折であった。外科出身の担当医は止血に汲々とし、十分なデブリドマンも行なわず閉創したため決まって感染し、難治性の外傷性骨髄炎を併発する例が多く見られた。昭和40年代にはどの病院の整形外科病棟にも治療に難渋して年余に亘って入院しているこれらの気の毒な患者を複数で抱えていた。

日本の救急患者の対応が諸外国に較べて著しく遅れていることは搬送時の死亡率が高く、この程ようやく救急救命士が誕生したことでも解るが、臓器損傷を伴う多発外傷の場合、骨折処置はどうしても遅れるζとは避けられない。救急外来を備えた大病院に常時救急患者用ベッドを確保しておくことなど、こうした制度上の改善を求めることは困難であり、とりあえず、これら多発する交通事故による不幸な骨折患者を無くすには研究会を設立して外科、整形外科医の研修、啓蒙をはかることが急務であると考えた。

私の古い日記を調べてみると、昭和53年2月18日に第一回骨折研究会開催の案内状を差し上げた宛先が記載されていた。 井上四郎先生(岐阜歯大村上記念病院)、桜井修先生(兵庫医大)、角南義文先生(岡山大)、那須亨二先生(川崎病院)、飯田鴎二先生(富山労災病院)、弓削大四郎先生(山口県立中央病院)。
これらの先生方は、事前に設立を希望されたり、賛同していただいた骨折に造詣の深い方々である。 研究会は骨折治療の専門家の集まりという趣旨から当初クローズドの形で始められ、テーマを「大腿骨頚部骨折」として案内状差し出し先よりの話題提供を求めて討諭を行なうこととした。 当日は京大教育会館を借りて開催したが、口コミだけで集まった参加者は30~40名であった。
口演、討論はすべてテープに録音し、雑誌「骨折」1巻に記録されている。

第1回骨折研究会プログラム
第1回骨折研究会プログラム(クリックで拡大)

日本骨折治療学会ホームページ開設に当たって

理事長 糸満盛憲

初代理事長 糸満盛憲

初代理事長 糸満盛憲

 日本骨折治療学会のホームページを立ち上げることになりました。最初にご尽力いただきました広報委員会の諸氏に感謝いたします。本学会の沿革を簡単にご紹介し、ごあいさつを申し上げます。

 本会は、「骨・関節外傷ならびに関連する諸問題を研究し、その進歩発展を図ることを目的とする」同好の士で組織される学会で、榊田喜三郎(京都府立医科大学教授)代表のもと昭和53年4月に設立されました。初期にはclosedの「骨折研究会」として、指定された演者による特定のテーマについての講演に基づいて、突っ込んだ議論をする目的で、中部日本整形災害外科学会の前後に毎年2回開催されました。昭和57年の第8回からは「日本骨折研究会」に名称を変更して、年1回研究発表会を開催し、骨折に興味を持つ整形外科医が自由に参加できる開かれた会として裾野を広げてきました。

 「整形外科は骨折に始まり骨折に終わる」といわれるように、運動器の外傷に遭遇することの多い第一線病院の先生方が多数参加するにぎやかな会になりました。会員の増加にともなって演題数も年々増加し、一つの会場で討論するという設立当初の趣旨には沿わなくなりましたが、現場で働く若い整形外科医が複数の会場で発表し、活発な討論が展開される学会となり、平成4年の真角昭吾(大分医科大学教授)会長の第18回からは、名称を「日本骨折治療学会The Japan Fracture Society JFS」に改めて、ますます発展してきました。

平成元年に、代表が榊田教授から山本真・北里大学教授に引き継がれたため事務局も京都府立医科大学から北里大学に移り、平成4年山本教授の退任後は、糸満が代表に任命されて引き続き事務局を運営してきました。しかし年々会員数が増え2500名を越す大きな学会に成長したこの会を、一大学の医局で運営することには限界があることから、平成15年に理事長制への移行と事務局の外部委託が認められ、1年間の期限付きの理事会で会則、役員の選挙規定などの緒規定を整備し、平成16年に正式に理事長制がスタートし、事務局も北里大学からアサツー デイケイ(ADK)に移転しました。

会の和文名称は日本骨折治療学会のままですが、英文名をThe Japanese Society for Fracture Repair JSFRに変更し、さわやかなロゴマークも出来上がりました。現在定期的に理事会を開催し、各種委員会を置いて活発に活動を始めています。
四肢や脊椎の外傷の治療は整形外科医が担うべき仕事であり、私たち日本骨折治療学会の会員がその先頭に立たねばなりません。一般の方々に、決して柔道整復士やカイロプラクテイクなどの医療類似行為に頼ってはならないこと、医療類似行為の施術によっていろいろな合併症や障害をきたして悩んでおられる患者さんが多数おられることをお知らせするのも、私たち学会員の大きな責務です。国民の皆様方がいつでも、どこでも、等しく、正しい治療を受け、外傷以前の運動器の機能を再獲得できるように、情報の交換を通して、日夜、知識と技術の向上に努力しましょう。

学会は、単に同好の士が集まって親睦を深め、学術的な問題についての研究発表をするだけの場であってはならないと思います。特に整形外科医が日常診療で遭遇する機会の多い運動器外傷を扱う日本骨折治療学会では、常に基礎的・臨床的研究を通して得られた成果を社会に還元し、外傷で悩んでいる患者さんの治療を通して社会に貢献することを念頭においておかなければならないでしょう。

新しいインプラントが発売されるとすぐに飛びつき、よかったよかったという内容の発表が多い学会でしたが、近年、まだ少数ではありますが、骨折治癒過程とその生物学的、細胞学的機序に関する基礎的研究、骨折治療にかかわる合併症に関連した詳細な臨床研究などの発表も見られるようになったことは喜ばしいことであります。雨後の筍のように現れては消えていく数え切れないインプラントが、言葉巧みに業者主導で市販されています。もちろん優れたインプラントが数多くありますが、いくつかのインプラントのデザイン不良による合併症が報告されて問題になりました。販売する業者にも当然責任の一端はありますが、直接患者と接して使用するのは医師であり、それを選択した医師にはもっと重大な責任があることを自覚しなければなりません。また保存療法が行われる機会が少なくなっており、骨折の徒手整復、上手な外固定ができない整形外科医が増えていることも確かなようです。今後取り組んでいかなければならない大きなテーマであると考えています。

このような観点から、日本骨折治療学会は学術集会を通じた研究発表や意見交換だけでなく、ホームページを通じて、各種委員会の活動状況や国内・国外の関連学会との連携などについての最新の情報を会員に提供していきたいと考えています。しかしこれらの情報提供が一方通行になっては意味がありませんので、将来は会員と事務局、また会員相互の情報・意見交換の場となるよう、充実したホームページにしていきたいと考えています。会員諸氏は、どうぞ建設的なご意見をお寄せください。